老いが、病いが、死が 私の生を問いかけている
今月のことばは、真宗大谷派の僧侶、二階堂行邦師のお言葉です。浄土真宗では、身近な人の死を通して、私が何をどう受け止めるのかという問題について、お話しする中で使われた言葉の一部です。師は、人生最後の「看取り」という家族にとって極めて大切な作業が、医療技術の進歩と合理的な便利さの中で病院の仕事となったために、ほとんどの家庭から消えてしまったという事実に言及します。「葬儀」が「直葬」や「お別れ会」という名で合理化・簡略化され、「納骨」が「合葬」や「散骨」という名の下に遺骨廃棄になり、人の死の重みが忘れ去られている、という現状があります。そのような問題を語られた後に次のようなお言葉が語られています。
「生老病死という人生苦を、私だけの体験として固執し、私だけが災難に遭ったように考えてしまい、そこから自分の人生をすぐ結論づけてしまうのです。しかし、人生の体験は、結論を与えるものではなくして、むしろ人生体験の事実からその人の人生が問いかけられているのです。老いが、病いが、死が、私の生を問いかけているのです。『これでいいのか?』と。しかし、自分の合理主義的な思考では、その問いに答えられないのです。それで苦悩する。それが人間なんですね。」
現在では、斎場(ホール)での葬儀が当たり前になりましたが、それ以前は地域によって様々な形で自宅葬が行われていました。様々な葬具を使って自宅から墓場、もしくは霊柩車まで葬送の列が進んでいく様子は、映画の1シーンでも見られることがあります。それらの葬具の中でも、天蓋がつるされている意味は、亡くなられた方のご遺体を「死体」としてではなく、その人を世の無常と念仏の確かさを知らせてくださる「仏さま」として敬い、その仏さまに雨露がかからぬように、棺桶の上に天蓋をかざして歩いたということだそうです。浄土真宗にとって、葬儀は「お別れ会」や「告別式」ではありません。身近な人の「死」を通して、今の私の「生(いのち)」と「生き方」が問われる場所なのです。
人は誰しもが、できることならば健康で若さを保ち、病むことなく、少しでも長生きをしたいと願いながら生きています。しかし、人間が生身である以上、老いも病も絶対に避けることができない事実です。お釈迦さまも「四門出遊」という有名なお話にあるように、いかなる人も老い、病んで死にゆく身であることを知って愕然とされ、自らの命と向き合う生き方を選んで出家されたと伝えられています。
日常生活の中で、自分の思い通りになるのが当たり前だと傲慢に生きている私に、老いが、病いが、死が、思い通りにならない現実となって、「私とは何なのか、生きる喜びに出遇えたか、何を拠り所として、どこに向かって生きているのか」と、私の「生」を問いかけてくるのです。「月々のことば」より
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