「他力本願」=「本来自分ですべきことを他人任せにすること」という誤用が一般化してしまっているこの言葉。「自力」と「他力」という問題は、浄土真宗の教えを理解する上でとても大きなポイントになるところです。
親鸞聖人は、「自力」とは、自分が出会った教えにしたがって、さまざまな善行を積み重ね、そういう修行に励んだ自分自身を頼りとし、また自分の善悪の判断に基づいて、常に身のふるまいを正し、言葉遣いに気をつけ、心が乱れたらそれを取り繕い、立派にするように心がけ、そのような生き方をしている自分であればきっと往生できるだろうと期待すること、これを「自力」というのです、といわれています。確かに、「悪をつつしみ、善をなしていく」という行為と、それによって自分の身を立派に整えていくということは、仏教の原則からいっても、社会通念上から考えても、実にまっとうな生き方です。しかし、親鸞聖人は「自力の御はからひにては真実の報土へ生まるべからざるなり。」と、自力による往生を否定されるのです。では一方、親鸞聖人は「他力」についてどのように言っておられるのでしょうか。同じお手紙の中で、聖人は「阿弥陀如来の四十八のお誓いの中で『あらゆる行を選び捨て、ただ念仏一行を選び取って往生決定の行とする』と誓われた第十八願を、疑いなく聞き入れて喜ぶことを『他力』という」と言われています。一般的には、念仏一行を修めるよりも、さまざまな行を積むことの方がすぐれているし、そのような者を仏さまは救ってくださるのだ、と考えるのが普通です。しかし、果たして私たちに清浄無垢な善行を積むことは可能でしょうか。少し“良いこと”をすると、気付かないうちに見返りや周囲からの高い評価を求めて、期待する反応が返ってこないと、逆に腹を立てたりしてしまうのが、私たち凡夫の姿ではないでしょうか。
親鸞聖人は、別の書物の中で「万能の薬が一切の毒を消し去るように、阿弥陀如来の誓いは愚かな者の毒も、賢い者の毒も消し去るのです」と述べられています。愚かさがもたらす私たちの心の闇、といいますと、いやというほど思い知らされますが、理性や知性というものの毒性は見えにくいものです。しかし、自己の智慧、理性、教養などにとらわれて傲慢になり、自己を誇ってしまう人間がつくり出す闇の中に、人間自身が、そして政治も経済も落ち込んでしまい方向を見失っているのが、現代を生きる私たち人間の姿なのではなのかも知れません。
私たちが、このお預かりしている命を精一杯輝かせる道は、阿弥陀如来の大いなるはたらきにおまかせしていく道しかないという、深い人間洞察なのでしょう。
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