“あたりまえだ”と言うて
まだ不足を言うて生きている
今月の言葉は松扉哲雄師の法話の中のお言葉です。師が活躍された1970年頃、日本は飛躍的な経済成長を遂げる一方、国外では「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、国内でも自然環境の破壊や環境問題、水俣病やイタイイタイ病などの公害問題が、大きな社会問題となっていました。そして、このような社会で人間にとっての本当の幸せとは何なのかが問われ始めていました。そのような中で、松扉師は“人間とは何か”をご自身に問い続けながら、本当に実のある人間=相手の立場に立つことの出来る人間になろうじゃないか、という呼びかけをしていくために『人間成就』という季刊誌を発刊し、生涯にわたって人間成就を説いていかれることになります。師は「人間成就」とは「深く生きること」であるとして、次のように述べられます。
「『なぜ仏法を聞くのか』それは『人生を深く生きるため』である。深く生きることなくして、人間は満足を持って生き切る、安心を持って人生を送ることはあり得ない。深く生きる中身は『生かされて生きる、おかげさまの一生といただくのみ』である。この『いただく』とは目覚めさせていただくことであり、『おかげさまの一生といただく』とは一切の存在するものはみな支えられて生きていることに目覚めさせていただくということである。そのためには教えに出遇うことが大事である。」
ここで、「生かされる」「支えられる」とは、自分にとって都合のいいことだけをいうのではありません。人は辛いことや悲しいことを背負って生きていかなければなりませんが、それも「生かされていること」の一部であり、辛いことや悲しいことのおかげで気づかせていただいたり目覚めさせていただく、という生き方に繋がるのです。
今月の言葉は、次のような話を受けてのものです。「おかげさま」という日暮らしをされていた、ある老夫婦がおられました。おばあさんが倒れて寝込まれた時、おばあさんが汚してしまった腰巻きを洗って干しているのを見て、おばあさんが「モッタイナイ」とおじいさんを拝みました。その瞬間、おじいさんは自分が60年間褌を洗ってもらいながら感謝もせずにきた自分に気付き、「なんとあさましいヤツであったか」と思い知らされた、という話です。聞法の生活をしていれば、あさましい心を持った自分であることは知っているつもりなのですが、日々の生活の中で自分の浅ましさを実感し、生かされて生きている自分に目覚めることは、本当に難しいことです。しかし、その目覚めこそ、私を支えるものに対する感謝と喜びを生み出すはずなのです。
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