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執筆者の写真浄光寺

7月お便り

沖縄を二度と戦場にしない


昔「宇宙戦艦ヤマト」に憧れた時期がありました。自らを犠牲にして放射能にまみれた地球を救おうとするヤマト乗組員の仲間達。子ども心に熱いものを感じたものでした。

 実際の戦艦大和は1945年4月6日特攻作戦を仕掛けに沖縄に向かいましたが、翌日には沖縄の遙か手前で米軍の猛攻を受けて撃沈され、乗組員3332人のうち3056人が亡くなりました。その中で新たにわかった方々の名前が6月23日の沖縄「慰霊の日」に向けて「平和の礎」に刻まれました。沖縄戦で亡くなった全ての人を対象に戦争のありのままの姿を後世に正しく継承するために「平和の礎」は沖縄戦最後の激戦地・本島南部の摩文仁の丘にある平和祈念公園に作られました。新たな刻銘を含め今年で24万2225人の名前が記されました。

 岸田政権は今、沖縄をアメリカの対中国軍事戦略に基づく戦争の最前線に位置付け、自衛隊の増強を急ピッチで進めています。沖縄の民意を無視して辺野古に米軍新基地建設を強行し島々に自衛隊の拠点を新設し強化しています。先日の報道によると沖縄の自衛隊のホームページに沖縄戦を指揮した牛島司令官の辞世の句が掲載されていたそうです。その句は「敗色が濃厚な沖縄の臣民は天皇の国のために再び立ち上がってほしい」という内容のもので、「旧軍を美化するもの」と批判の声が上がっています。沖縄戦は本土決戦を遅らせる時間稼ぎのための捨て石作戦でした。牛島司令官はすでに多数の住民が避難している南部に撤退して持久戦で戦争を引き延ばすことを決めました。そのため、南部一帯は軍民混在の戦場になってしまいました。米軍の「鉄の暴風」が吹き荒れる中、日本兵による壕からの住民追い出しや食料の強奪、泣き止まない乳幼児や沖縄の方言を使ったものの殺害など数々の悲劇が起こりました。日本刀や銃剣で脅されて親たちは泣く子どもを池に沈めて溺死させなければならなかった、という証言も残されています。

 沖縄戦「慰霊の日」は沖縄を捨て石にした本土の私たちこそが「沖縄を二度と戦場にしない」という決意を新たにする日です。今年の追悼式で高校生が読んだ詩の一部を紹介します。


 小さな島で起きた/あまりに大きすぎる悲しみを/手を繋ぐように/受け継いできた/それでも世界はまだ繰り返してる/七十九年の祈りでさえも/まだ足りないというのなら/それでも変わらないというのなら/もっともっとこれからも/僕らが祈りを繋ぎ続けよう/限りない平和のために/僕ら自身のために/紡ぐ平和が/いつか世界のためになる/そう信じて/今年もこの六月二十三日を/平和のために生きている/その素晴らしさを噛みしめながら



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