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執筆者の写真浄光寺

8月のお便り <帰敬式・臨終勤行>

更新日:2021年8月26日

急に暑くなったせいでしょうか、葬儀が2件続きました。お一人は107歳という大往生でしたが、随分以前に帰敬式を受けておられ、院号までお持ちでした。もうお一人はまだ帰敬式を受けておられなかったので、本来の形ではありませんが私が法名をつけさせていただきました。

 10年ほど前から「終活」が注目されていますが、必ずやってくる「死」という現実を正面から見据えて生きていくという姿勢は、大変重要な心構えです。その際に、仏教徒として、さらには浄土真宗の門徒として頭に置いておいておきたいことを以下にまとめてみます。

【帰敬式について】

 帰敬式とは、阿弥陀如来・親鸞聖人の御前で浄土真宗の門徒としての自覚をあらたにし、お念仏申す日暮らしを送ることを誓う、私たちにとって大切な儀式です。この帰敬式を受式され、仏弟子となった方には本願寺の門主より「釈○○」という法名が授与されます。両親からの願いが込められた名前と共に仏さまからの願いが込められた名前をいただいて生きていくのです。帰敬式は生前元気なうちに受式し、共にお念仏を喜ぶ人生を歩みましょう。

【臨終勤行・通夜・葬儀】

 大抵はお亡くなりになってからお寺に連絡をいただくことが多いので、その場合はお通夜からお勤めさせていただきますが、この世での命が尽きる間際に連絡いただいた場合は(タイミングさえ合えば)、ご家族の皆様と一緒に「臨終勤行」をお勤めさせていただきます。

 臨終勤行とは、本来は“いのち”あるうちに、長い間お育てくださったご本尊である阿弥陀如来に御礼を申しあげるお勤めです。「久遠という、とてつもない昔より今日まで絶えることなく、お育てをいただきましたおかげで、いよいよこの世の縁尽きて、お浄土に往生(生まれ)させていただきます。今日まで有り難うございました」と、人生を終えようとする“ご本人”が、ご本尊である阿弥陀如来に御礼を申しあげるためのお勤めです。しかし現実には、親しい方が息を引き取ろうとしている状況では、大変な悲しみと混乱で、そこに僧侶を呼ぶことはなかなか難しいことかも知れません。いつ命が尽きるかは誰も分かりませんので、実際、息を引き取り死亡が確認されたご遺体を安置し、ご本人の代わりにご遺族の皆様と共にお勤めをさせていただくことになる場合もあります。そのお勤めを“枕経”とよく言われますが、浄土真宗では、「臨終勤行」といい、ご遺体に対してお勤めをするのではなく、ご本尊である阿弥陀如来の御前でお勤めするのが正式です。

 通夜とは文字通り、近親者や親しい知人が"夜を通して"ご本尊前の遺体のそばに集い、亡き人を偲びつつ仏さまの救いを味わう法事です。通夜のことを、昔は夜伽とも言いました。一つの布団に入って、本心で語り合うのが夜伽です。亡き人が声なき声で語りかける人生最後のメッセージを心して聞き、送る方も一番伝えたいことを亡き人に語るためにあるのが夜伽であり、お通夜です。

葬儀とは、「生」に執らわれ死の現実から目を逸らせがちな私たちに、(亡き人も含めて)一つのけじめとして死を受けいれさせ、一歩前に進む契機を与えるものです。葬という字は、原野に屍を安置する形ですが、これは遺体の変わりゆくすがたを直視し、死を受け入れる行為を意味します。また、屍や死という字は、残骨を拝するかたちの象形文字です。すなわち、亡き人の死を受け入れ、今後は亡き人を敬うべき存在として崇めていくことを表すのが「葬」という言葉です。したがって、葬儀とは、亡き人のいのちを死で終わらせることなく、普遍的な価値を持って関わり続ける存在として私たちが受け止めていく儀式と言えるでしょう。

 亡き人は、阿弥陀さまの救いのはたらきによって浄土に生まれ、仏となられます。亡き人の存在を「死」で終わらせるのではなく、永遠のいのちを持った存在として蘇らせる・・・その一大事業を成し遂げられたのが阿弥陀さまなのです。「往生」という言葉は「浄土に往き生まれる」というように、「死」ではなく「生」として表現されることに意味があるのです。



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