また今年もお盆の季節がやってまいりました。日本人が大切にしてきたお盆という行事を通して、「先祖供養」の風習だけに終わるのではなく、生きている私たち自身が自分の命のありように目覚めていくための仏法に触れるご縁にしていただきたいと思います。
今年もお盆の元となった目連尊者の故事をご紹介します。お釈迦さまの十大弟子の一人、目連尊者は神通力第一と言われた人でした。その目連が神通力で、亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいる痛ましい姿を見つけます。彼は深く悲しんで、直ちに鉢に飯を盛って母に捧げましたが、喜んで母がそれを食べようとすると、たちまちその飯は火炎と燃え上がり、どうしても食べることができません。泣き崩れる母を目連は悲しみ「どうしたら、母を救うことができましょうか」とお釈迦様にお尋ねしました。すると、お釈迦様は、「それは、そなた一人の力ではどうにもならぬ。この7月15日にご馳走を十方の僧に供養しなさい。」と教導されました。目連尊者が、お釈迦様の仰せに順ったところ、母はたちどころに餓鬼道から天上界に浮かぶことができたというお話です。
この話が日本でもともと大事にしてきた先祖供養の風習と結びついて、先祖を迎えたり送ったりすること自体が仏教の教えであるかのような勘違いが広まってしまっています。しかしこの話の要は「餓鬼道で苦しむ母を直接供養しようとしてもかえって母を苦しめてしまい、三宝(仏法僧)に供養して初めて救われた」という点です。三宝に供養するということは、ただ食べ物を捧げるということではなく、仏法を自分の命の上に受け止めながら真剣に聴くということです。仏法に出遇わなければならないのは、何を差し置いてもまずは今ここを生きているこの私なのです。目蓮尊者の神通力とは、超能力のようなものではなく、物事の筋道、本質、道理のよくわかる、冷静で深い洞察力のことであると考えられます。その洞察力をもって目蓮尊者は亡き母のことを追憶したのです。「あんなに私を可愛がってくれた母だからこそ、その罪を背負って餓鬼道へ堕ちているはずだ」と考えたのではないでしょうか。神通第一の人だからこそできた深い思索、人間の“自己中心性”に対する深く厳しい警告です。そして、その目蓮尊者の深い思索に対して、お釈迦様は仏・法・僧への“施し”という道をお示しになったのです。
仏教では、私たちの人生は苦であると言い切ります。その原因は、私たちが世界のありのままの姿を正しく見ることが出来ず、すべての物事を自分のものさしで見て善悪を判断し、現実世界が自分の思い通りになることを求め、自分の思いにそぐわないものを排除しようとするからです。そして、だからこそ他人の思いと衝突し、自分の思い通りにならないことに苦しみ、怒り、そねみ、妬みながら生きていってしまうからです。その自己中心的な思いが煩悩です。この煩悩にとらわれた私の姿をあるがままに正しく見る視点を与えてくれるのが仏法なのです。仏法を学び、自分のありのままの姿が少しずつ見え始め、人格が育てられていく中で、私自身の中に目覚め体験が起き、悩み多い人生がそのまま味わい深い人生として感じられていく。仏法はそんな風に私たちの人生を豊かなものにしてくれるはずです。
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