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執筆者の写真浄光寺

仏教徒としての自覚

8月15日、今年で2回目となる「盂蘭盆会」の法要をお勤めさせていただきましたが、今年も大勢の方々にお参りいただきました。大変尊く有り難いことではあるのですが、昨年同様、(普段の御法座や法要にも、これだけ多くの皆さんにお参りしていただけらたなぁ)、と感じずにはいられませんでした。


 皆さんは普段、どんな時に「自分は仏教徒だなぁ」と自覚するでしょうか。お盆に故郷に帰り、お墓参りをしてご先祖に思いを馳せる、この風習は仏教徒ならではのものに違いありません。身近な方を亡くされた時に教会ではなくお寺に連絡くださるのも、仏教徒だからこそです。では、どんな時に「自分は仏教徒でよかったなぁ」と感じますか、と聞かれたらどうでしょうか。なかなかそのような実感を得ることは、普段の生活の中では難しいのではないでしょうか。しかし、せっかくそう感じることが出来る尊い教えに出会っているのに、本当の意味で仏法に出遇うことが出来ていないとしたら、とても勿体ないことを私たちはしているのかも知れません。「鏡を見る」ということが「鏡に映った自分の姿を見る」ということを意味するように、「仏法を学ぶ」ということは「仏法に照らし出された自分の姿が明らかになり、生きる意味と方向性が見えてくる」ということにならなければ、意味がありません。

 私たちの人生には、いつどのようなことが起こるか分かりません。自分にとって都合のいいことが起きている間は、特に感じませんが、好ましくないことが起きた時、それまで感じなかった大きな問いが自分にのしかかってきます。「なぜこんなに苦しい目に遭わなければならないのか」「こんなに真面目に生きてきたのになぜ」「自分の一番大切な人がなぜこんな事故で死ななければならなかったのか」「何万人に一人しかかからない病気にかかったのがなぜ我が子なのか」「何もいいことがない人生をなぜ生きていかなくてはならないのか」「そもそも何のために生まれてきたのか」「死んだらどこへ行くのか」等々・・・。

 仏教では、私たちの人生は苦であると言い切ります。その原因は、私たちが世界のありのままの姿を正しく見ることが出来ず、すべての物事を自分のものさしで見て善悪を判断し、現実世界が自分の思い通りになることを求め、自分の思いにそぐわないものを排除しようとするからです。そして、だからこそ他人の思いと衝突し、自分の思い通りにならないことに苦しみ、怒り、そねみ、妬みながら生きていってしまうからです。その自己中心的な思いが煩悩です。この煩悩にとらわれた私の姿をあるがままに正しく見る視点を与えてくれるのが仏法なのです。仏法を学び、自分のありのままの姿が少しずつ見え始め、人格が育てられていく中で、私自身の中に目覚め体験が起き、悩み多い人生がそのまま味わい深い人生として感じられていく。仏法はそんな風に私たちの人生を豊かなものにしてくれるはずです。

 お盆の起源となった目連尊者の説話はこれまでに何度か紹介させていただきましたが、あの説話の要は「餓鬼道で苦しむ母を直接供養しようとしてもかえって母を苦しめてしまい、三宝(仏法僧)に供養して初めて救われた」という点です。

 三宝に供養するということは、ただ食べ物を捧げるということではなく、仏法を一生懸命に聴くということです。仏法に出遇わなければならないのは、何を差し置いてもまずは今ここを生きているこの私なのです。「いつかそのうち」「時間が空いていたら」と言っているうちに、いつ切羽詰まった“何事か”に襲われるか分かりません。普段の生活の中に仏法を生かしていく為に、少し無理をしてでも都合をつけてお寺へお聴聞にお越しください。よろしくお願い申し上げます。

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