先日、洲本市内で自主上映された「わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-」という映画を観てきました。伊藤千代子は1905年に長野県諏訪市で生まれました。当時の日本は、天皇絶対の専制政治のもと、国民は「臣民」(天皇の家来)とされ、「天皇制」という国家体制の護持が何よりも大切にされ、その中で多くの国民が貧困と無権利状態にありました。千代子は小学校の教員をしながら、貧困に喘ぎ、学校にお弁当すら持ってこられない子どもがいることも、過酷な労働条件の下で心身をすり減らしながら働く労働者がいることも顧みられることのない社会に疑問を持つようになっていきます。諏訪での18年間は、大逆事件・第一次世界大戦からロシア社会主義革命・米騒動・関東大震災と続く、まさに激動の時代でした。千代子は18年間暮らした故郷・諏訪の地から、いよいよ大きく飛び立つ決心をします。
その後、東京女子大学に入学した千代子はマルクス主義に出合い、社会運動に身を投じていきます。後年、郷里の従妹あての手紙に千代子はこう書いています。「これからこの社会に生き、この社会で仕事をしていこうとする青年男女にとって、真に真面目になって生きようとすればするほど、この目の前にある不公平な社会をなんとかよりよいものにしようとする願いは、やむにやまれぬものとなってきます。私の勉強もそのやむにやまれぬ所から生まれて来ました。」故郷の製糸工場の労働争議、労働農民党の選挙支援などに関わり、日本共産党に入党。1928年に治安維持法違反で特高警察に逮捕されます。
「治安維持法」は共産主義を弾圧する治安立法としてつくられました。「天皇を頂点とする国家体制」「資本家が富を独占する社会」を変革する目的で結社を組織し、加入、協議、宣伝、扇動、財政援助をしたものを処罰するという世界にも類のない結社禁止法です。その特徴は共産主義運動だけでなく「思想そのもの」の弾圧を目的としています。やがてその弾圧対象は無制限に拡大され、民主的人士、宗教家をはじめ国民各層に及び、逮捕者は数十万人にのぼります。千代子は壮絶な拷問にも屈することなく信念を貫き通しましたが、同志でもあった夫の転向、長期の拘留が彼女の精神をむしばみ、入院した病院で肺炎のため24年の短い生涯を閉じました。
あらためて今の時代にどう生きるのかが問われる映画でした。社会の底辺で苦しむ人々のために、またよりよい社会の発展のために、国家権力の弾圧に命がけで抵抗したのは、宗祖親鸞聖人も同じです。伊藤千代子のように絶対主義的天皇制権力による非道な弾圧を受けながら、侵略戦争反対、自由と民主主義にたつ政府の樹立、人権をまもる国を目指し、行動した先人たちが日本の国のいしずえになって活動したことが、戦後、平和憲法の成立に直結しているのです。私たちはこのことに大いに誇りを持ち、そのことを広く伝えなければならいと改めて感じました。
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