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執筆者の写真浄光寺

六月のことば

信は如来の生命なり


 一般的に宗教における「信」といえば私たちの信仰心のことだと考えられます。しかし、その「信」が「如来(=阿弥陀如来)の生命」であるとはどういうことでしょうか。

 今月の言葉は親鸞聖人が示された「他力の信心」を明らかにしたものです。「他力」という言葉は「他力本願」という言葉として世間一般では本来の意味とは全く逆の「人任せ」という無責任な態度として理解されています。しかし、本来の意味は親鸞聖人が「他力といふは如来の本願力なり」とおっしゃるように「他力」とは「阿弥陀如来の本願による救いの力」のことです。「本願」とは阿弥陀如来の慈悲の願いです。すべてのいのちあるものに「南無阿弥陀仏」という言葉となってはたらきかけ、それを信じて念仏申すように育て、阿弥陀如来自身の世界である浄土に迎え入れて仏に成らせよう、というものです。

 私たちが普段の生活の中で何か(誰か)を信じるときは、「たぶん自分の期待する通りになるだろう」とある程度の根拠を元に「信じる」ことが多いのではないでしょうか。これだけ練習したのだからおそらく勝てるだろうと「チームの勝利を信じる」とか、これだけ自分が愛しているのだから相手も自分と同じ気持ちでいてくれるだろうと「恋人の愛を信じる」とか・・・。どちらの場合もある程度の不安を伴う「信」です。しかし、飛行機に乗る時に「落ちるかもしれない」と不安を感じながら乗る人も、東京行きの新幹線に乗って「違うところに連れて行かれるかもしれない」と心配する人もほとんどいないはずです。この違いはどこから生まれてくるのでしょうか。それは「相手に私を信じさせるだけの力や実績がどのくらいあるか」ではないでしょうか。公共交通機関はこれまでずっと「行き先表示通りに運行します。信じてください」と私たちにはたらきかけてきたその結果、いつの間にか私たちはそれを疑うことなく安心して信じるようになっているのです。その

ように安心が伴う「信」は、わざわざ自分の判断で「信じる」というよりは、あることをただそのままに受けとめ身を任せることが出来る心の状態と言えます。

 浄土真宗の信心も、「阿弥陀如来の側に私を安心させるだけの力がある」ことによって私が「信じずにはおれない」ようになった心です。阿弥陀如来のお心を真剣にお聴聞し続けることを通して、少しずつ少しずつ私たちの頑なな疑いの蓋が破られていくのです。そのように阿弥陀如来の働きが私たちの心に届いてくださり、私たちの心の上で生き生きと働き続けてくださる姿を「信は如来の生命なり」と表現されているのです。

 阿弥陀如来の教えに出遇うまでは、自己中心の心で自他を傷つけ合っていることに気づかず、その中にどっぷりと浸かったまま、苦悩を深めていました。教えに出遇ったからといって煩悩から解放されるわけではありません。しかし、阿弥陀如来のお心を聞かせていただくことによって、「むさぼり・腹立ち・おろかさ」に振り回される自らの迷いの姿を知らされ、そのような自分を恥じ、それを厭い離れようとする心が恵まれます。その「目覚め」こそが「阿弥陀仏の薬」の効用なのです。


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