人間そのものの目ざめを呼びかけるものが如来の本願である
多くの人が「幸せの条件」は衣食住が豊かに整い、健康で、地位や名誉が与えられることだと思いながら生きています。しかし、これが本当に「生きる目的」だと言えるのでしょうか。私たちは生きるために、毎日働き、三度三度の食事を摂っています。しかし、いつかはわからないけれども、間違いなく自分にも死が訪れるという事を、理屈としてではなく、現実として受け止めなければならなくなった時、私たちの生は根幹から揺さぶられます。「私とは何なのか」「私は何のために生まれ、何のために生きているのか」という大きな問いが目の前に立ちふさがります。
七高僧のお一人、曇鸞大師は「蝉は春も秋も知らずに短い夏だけを一生としている。この蝉といういのちは自らが生きている夏について春と秋と同じように何も知らないのだ」と言われます。言い換えると、春と秋を知るものだけが夏がどのようなものであるかを知ることができるのだということでしょう。この譬えを私たちに当てはめると、不思議な因縁によってこの世に生まれてくる前と、生老病死を抱えながら生き、臨終を迎えた後を知って初めて、今を生きているということがどのようなものであるかを知ることができる、ということです。
浄土真宗の教えで言う、人間が人間らしく生きるということ、つまり浄土に生きるということは、いつでも、どんな時でも「私が私であって よかったといえる あなたになれ」と呼びかけてくださっている仏さまの声を聞き届けていく生活から生まれてきます。私という、かけがえのない存在が大いなる願いをかけられて、今しかない自分だけの時間を生かされて生きている、そういう自分の本当の命の姿に目覚めていく、ということが豊かな人生に目覚めていくことにつながっていくはずです。
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