生の依りどころを与え
死の帰するところを与えていくのが 南無阿弥陀仏
「宗教」という言葉はreligionという英語を訳す際に生まれた日本語です。religionの語源は「神と人間という二つの存在を結びつけるもの」という意味だそうです。一方「宗教」という言葉は「宗とする教え」ですから正しい道理を説いて人々を導いていく教えを生活の中心(宗)に据えていくというような意味合いになりま
す。
もしあちらの側に阿弥陀仏という仏がいて、こちら側に人間がいて、その間を結びつけるものがお念仏ならば、そのお念仏は人間の側の願いを叶えてくれるためのものにしかならないのかもしれません。現代では多くの人々が自分の苦悩やこの世をどう生きればいいのかという問題を解決する方法を情報収集するような態度で宗教に触れています。しかし、そのような態度ではいくら情報を集めてもその集めた情報によってさらに迷いを深めてしまうことにもなりかねません。宗教はそれを利用すればどこかにたどり着くことができる、というようなものではなく、その教えそのものが私たちの生きる目的とならなければ意味がありません。宗教に遇うということは自分が何者であるのか、その本当の姿が知らされるということです。そして“自分”というものを中心にものを見、判断してきた生き方が、“教え”を中心にして生きていく生き方へと転換されていくのです。その教えのように生き抜くということが宗教の中に生きているということであり、それが“救い”なのです。
浄土真宗は阿弥陀仏の本願を宗とする教えです。本願、つまり私たちにかけられた阿弥陀仏の「すべての悲しみ、苦しみを超えた平等なる世界に生まれしめたい」という願いを受け入れてお念仏させていただく、というほかには何もありません。教えを利用し自分の役に立てようとする心から離れられない私たちに、生の依りどころを与え、死の帰するところを与えてくださるのが、南無阿弥陀仏のお念仏であるといわれたのが、今月のお言葉です。この言葉を残された金子大榮師は「念仏の心において、まず明らかになることは自分というものです。念仏とは自己を発見すること-自分を見出したということにおいて、その見出さしめた光として、そこに仏というものが感知されるのです。」といわれています。善導大師は仏法を学ぶことを「鏡」に譬えられました。昔の鏡は銅鏡ですから絶えず磨き続けなければすぐに映らなくなります。鏡をよく磨けば姿が明らかに映るように、仏法を聞かせていただくほど自分の愚かな姿がまっすぐに見え、その愚かな私を摂め取って決して捨てないという阿弥陀さまの大いなる慈悲がかけられた我が身であることが知らされます。
少し間違えば、私たちは「私はどうせ凡夫だから仕方がない」と凡夫の上にあぐらをかこうとします。しかし、凡夫とは自己中心的なものの見方、考え方によって周囲を傷つけ自分自身をも傷つけている姿を表します。だとすると「凡夫だから仕方がない」という言葉は、周囲の人に対しても自分自身に対しても大変申し訳ない言葉なのです。自他を傷つけながら生きていくしかない我が身の愚かさに気づかせていただき、そのような愚かな私を目当てに決して見捨てず救おうという大きな意志を感じた時に、私たちは大きな安心の中にも自分の自己中心的な在り方を改めていこうという新しい生活態度が生まれてくるのではないでしょうか。
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