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執筆者の写真浄光寺

十月のことば

更新日:2022年11月2日

悲しみあるがゆえによろこびあり 煩悩あるがゆえに菩提あり


 今月は、大谷大学で教鞭をとられていた伊藤慧明師の著書にあるお言葉です。

 私たちは、一度きりの人生を楽しく喜びに満ちた幸福な人生にしたいと願いながら生きています。しかし、実際の人生がずっと楽しみや喜びに満たされ続いていくということはあり得ないと、多くの人は経験上知っています。それでも、できるだけ苦から目を背けて、楽を求めて日々を過ごそうとしています。そして所有欲が満たされたり、周囲の人々と比較して優越感を持ったりするときに幸福感を覚えるのが私たちの姿ではないでしょうか。お釈迦さまは、将来一国の王として財力と権力を掌握できる事が約束されていたにもかかわらず、そこには普遍の安らぎがないということを見抜かれ、その全てをなげうたれました。そして、人生において避けることのできない老・病・死と真っ正面から向き合い、それらを乗り越えていく生き方を選ばれたのです。



 宗祖親鸞聖人も、苦悩の原因となる煩悩を断ちきり悟りを得ようと、比叡山で20年間学問と修業に励まれました。しかし、かえって自らの煩悩の深さに気づかれ、失意のうちに山を下りて法然聖人をたずねられます。そして法然聖人のお導きによって阿弥陀さまの本願に遇われるのです。『歎異抄』の中で弟子の唯円が「念仏申していても躍り上がるような喜びの心が湧いてこない」という悩みを勇気を奮って親鸞聖人にお尋ねになる話が出てきます。その際聖人は「この親鸞もまったく同じことを悩み続けていたのだ」「喜ぶべきことを喜べないからこそ、ますます往生は間違いないと思いますよ」と答えられます。そして、「喜ぶべき心が抑えられて喜べないのは煩悩が邪魔をしているからです。そして阿弥陀仏はその事を既にご存じの上で、煩悩具足の凡夫と仰せられ、そういう私達を救いの目当てとしてくださったのですから、私たち凡夫は煩悩があってこそ救いの目当てだと、ますますたのもしく思えるではありませんか。」と説き示されるのです。「煩悩があるからこそ、救いの目当てなのだ」とおっしゃるのです。お仏壇の荘厳で香炉と蝋燭立てと花瓶をセットで「三具足」といいます。一つでもかけたら「具足」とはいいません。「煩悩具足」とは煩悩という煩悩をすべて欠けることなく持ち合わせている、という自覚です。私たちが自分の持っている煩悩をいくら心配しても、そのもっと遙か以前から阿弥陀仏は煩悩にまみれた私をこそ救いの目当てとして願いをかけてくださっているのです。聞法の生活の中で阿弥陀仏の智慧の光に照らされていくからこそ、煩悩具足という私の影がくっきりと映し出されるのです。


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