3月20日~21日の2日間、春の永代経法要がお陰さまで無事に勤まり、二日間でのべ54名の方がお参りくださいました。浄土三部経をお勤め後、三座にわたって「るんびに学園」理事長でもある藤大慶師から、お釈迦様が悟られた「真実」とは一体何だったのか、お釈迦様はなぜ、何のために説法を始められたのか、ということについて、じっくり考察しながらお話しくださいました。
生きとし生けるものが、世界にたった一つのかけがえのない輝きを持った命として目覚めて欲しい、という願いを成就されていった阿弥陀如来の物語。お釈迦様の悟られた真実を、お弟子達はそのような物語としてお経にまとめていかれました。お釈迦様が長い修行の末にたどり着かれた「ああ、そうだったのか」というお気づきが「悟り」です。とても人に伝えてわかってもらうことは出来ないと思っていたお釈迦様に梵天(天の神)がせっかくのお悟りを多くの人に伝えよと諭したと言われています。それから80歳でお亡くなりになるまでインド各地を旅しながら説法を続けられたのは何故だったのでしょうか。きっとお釈迦様のお話を「ああ、なるほど。そうだったんですね。」と喜んでくれる人々がいたからこそではないでしょうか。藤先生は説法をしているお釈迦様の方こそが救われていたのではないか、とおっしゃいました。そのお釈迦様の姿を見てきたお弟子さま達の中から、法蔵菩薩が長い長いご修行の末に阿弥陀如来となっていかれたご苦労話が生まれていったのでしょう。同様に、親鸞聖人もお釈迦様が気づかれたお悟りを理屈ではなく身体全体で「ああ、そうだったのか」と受け止めていかれたからこそ、天変地異や飢饉、疫病、争い、そしてご自身が受けた弾圧などの大きな困難が続く中で、90歳というお歳になるまで必死で布教を続けられました。
その、お釈迦様が気づかれた「真実」とは何だったのか。藤先生は、それを40億年のいのちの歴史としてお話しくださいました。私たちのいのちがどこからやってきたのかを、人類の誕生、生命そのものの誕生にまで溯っていくと、40億年というとてつもなく長い時間紡がれてきた生命が、私の身体の60兆の細胞の中に刻み込まれていて、私のいのちの中に脈々と流れていることが感じられます。その命のバトンを、今こうして私たちは受け取って生きています。そう考えると、この命は「いただきもの」としか思えません。しかし、この高度に発達した脳が「我」を生み出し、「私は自分の力で生きている」と思い込んでしまうのです。そして、そこから生まれる「我執」「邪見」が「私がこれだけしてあげているのに・・・」「これだけ頑張っているのに・・・」と自分で自分の中に地獄を作り、他者を苦しめていくのです。仏教は「目覚めの宗教」です。「真実」が理屈としてではなく、私のいのちの上にまっすぐ受け止めていくために、ひたすらお聴聞です。
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