9月23日~24日の二日間、秋の永代経法要がお陰さまで無事に勤まりました。二日間で延べ46名の方がお参りくださり、浄土三部経をお勤め後、40年以上の永きにわたってお付き合いいただいている藤田眞哲師に、三座にわたって尊い味わいをいただきました。
宗祖親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の説明をされる時に「生起」と「本末」ということを言われます。「生起」とは「阿弥陀仏の本願が建てられた理由」「なぜ私を救おうと決めたのか」ということです。もし、私たちが自分の力で迷いを離れた静かな悟りの境地に至ることができるのであれば、阿弥陀仏の本願も「南無阿弥陀仏」も必要ありません。しかし私たちの現実の姿は、「惑業苦」の「三道」=迷いの世界を抜け出せない姿です。「惑」とは、迷い・惑い・煩悩のこと。「業」は悪い行い。「苦」は苦しみのことです。「あの人がいなければ、もっと儲かるのに・・・」と欲張る。「あの人のせいで恥をかかせられた!」と怒る。「あの人ばかりなぜ認められるの?」と妬む。これが『惑』です。その迷い、惑いが原因で 言ってはならないことを言う。やってはならないことをやる。これが『業』です。その結果は、天に向かって吐く唾のように、全部自分に返ってきて、苦しみばかりが増していく。これが『苦』です。その苦しみの中から、また「この人がいなければ」「あの人のせいで」「あの人ばかり」と惑いをおこしていく。その『惑』が因となり、またもや『悪い行い』をしてしまい、苦しみは雪だるま式に膨れ上がっていく。惑→業→苦⇒惑→業→苦⇒・・・。これが私たちのあるがままの姿ではないでしょうか。だからこそ、この私のために「煩悩まみれの衆生をも成仏させる」と決意された大いなる願いが生まれたのです。この「現実」に対して、「本末」とは「本願の意味・内実」、つまり私たちが向かうべき「理想」のことです。私たちが仏さまから願われている存在であることに気付き、目覚め、報恩と感謝の生活を送る人間になっていくことです。しかし、親鸞聖人は私たちが抱える業の深さは、遠い過去から流れてくる濁流のように、いまここで綺麗な水に替えようとして替えられるものではないと見抜かれます。ではそんな私はもう涅槃にいたることは出来ないのか・・・。そこで、親鸞聖人はこうおっしゃいます。私が求むべき、でも、どうあがいても手の届きそうにないお浄土だが、実はその理想の世界は、今この私に向こうの方から近づいてきているのだ、私が求める前から、仏はこの私のいのちの上に届いているのだ、と。仏に背いてしか生きられない私であると深く現実を見つめながら、その自覚とともに、そうであるからこそ、この私に向かって仏のいのちが届いているのだと言われるのです。地獄しか行き先のない私ですが、仏法を学び、お聴聞の中でお念仏申す身に育てられ、そのお念仏は仏が私を呼ぶ呼び声であったと思い当たっていく体験を積んでいくことが「信心を得る」ということなのでしょう。
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