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執筆者の写真浄光寺

十月お便り

「汝自身を知れ」。古代ギリシャの時代から「自分を知ること」の難しさは人間にとって非常に難しいテーマでした。真宗大谷派の僧侶で、全国で講演や布教活動に精力を注がれた高光大船師の言葉をご紹介します。

「人は我を知らず、自己に迷っている。しかも一日として我を主張しない日もなく、我を張らない時もないのである。それほど人間は我を知らず、我ほど知り難いものはないのである。されば世の中の人々の主張ほど儚いものはないほど、人々は我を知らず自己を知らず迷っているのである。」

 私たちは自分自身の目で自分の姿をそのまま見ることは出来ません。鏡で見る姿も他人が見る姿とは左右が逆です。他者の悪いところはよく見えますが、自分の本当に悪いところは見えません。善と悪、損と得なども自分の都合でしか判断できず、そこにこだわってしまうので、他者とぶつかり合ってしまいます。好きなことに夢中になってしまうのと同様に、欲や怒り、嫉妬や恨みにとらわれるとそこから抜け出せなくなり、煩悩一色に陥ってしまいます。根本にある問題は、人間は自分自身について無知である、ということです。自分の外側から冷静な目でありのままの自分を見つめることが出来ず、我執から抜け出すことが出来ないのです。そして、それが“人間というもの一般”の話としては理解できても、自分のこととしては受け止められません。常に自分以外の“誰か”や“何か”を自分のものさしで自分勝手に分け隔てし、その自分勝手さが他者を損ない傷つけてしまいます。このようにやっかいな自分とどう向き合えばよいのでしょうか。

 仏教では、教えを聞信し、さとりの智慧をこの身に獲得することをめざします。智慧とは事物のありのままの姿を見通すことが出来る心のはたらきのことです。智慧は煩悩の心の闇を内側から照らし出す光であり、迷いや苦しみを生み出す愚かさへの目覚めをうながします。そこからの目覚めによって、自分の中にある凝り固まったものの見方が破られ、我執という囚われから少しずつ解き放たれていくことになります。

 煩悩から抜け出せず、無知の闇の中でもがき苦しんでいる私たちを照らしてくださるのが、仏さまの光です。阿弥陀さまの智慧は、私の偏ったものの見方を砕き、自己にがんじがらめになっている縄を解き放ち、やがて苦から楽へ、おごりからご恩へと、私たちの人格を育ててくださいます。それでもこの身がある限り、煩悩から完全に解き放たれることはありませんが、仏法にこの身を照らしながら、凝り固まった心を解きほぐし、生かされて生きている在りようを感じながら、心和らぐ生き方をめざすのです。高光大船師はご自身のことを「掃いた畳はきれいになったようだけれど打ち叩けば埃はむくむくと立ち上がるように久遠の自性が煩悩」と告白されています。師の、人間の奥底に潜む偽善を見抜く眼力の鋭さは一流だった、といわれています。どこまでも自分に甘い私たちですが、だからこそ日頃から仏法を聴聞し、ありのままの自分を見る目を少しでも育てていきたいものです。




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